ある放電加工機メーカの落日[3]
3、セールス・サービス部門の分離

 昭和五十年代半ばに、放電加工機メーカのトップランナーを自認していたJ社が、M社に抜かれたとの記事が、日刊工業新聞の一面にて報じられた。数字での裏付けもなされている。
 その後はM社を追走するかたちになったが、新興のMa社、S社の後続ランナーの足音も徐々に大きくなりつつあった。このままでは後続集団に巻き込まれるのも時間の問題である。
 J社のかたくなな少数主義も限界に来た。社長の「私の適正社員50人」の対マスコミ発言に縛られて、セールス・サービスの補充もままならないできたが、現状では劣勢の挽回は不可能である。さればと言って、経営者自らがタブーを犯すのも問題がある。

 そこで、思い付いたのが、セールスとサービスを別会社として切り離すことである。こんな姑息な手段をとって良いはずがないが、外見上は、本社の人数を増やすことなく、セールス・サービスの増員が一応は可能になった。
 その頃の対外数字に、社員55人で、売り上げ140億円と言うのがあるが、別会社の方に人数を移してゆけば、社員は1人でも成り立つのである。
 この新会社は何故か忘れたが、Jエンジニアリングと名付けられ、当時営業部長だった町田さんが自動的に社長に就いた。出先はすべてセールスとサービスなので、一斉にJエンジニアリングの所属である。

 ユーザとの接点であるセールスとサービスが名称を変更したので、名刺、伝票、封筒、ユーザに届くすべての刷り換えである。カタログにまで取り敢えずのシールを貼ったが、ユーザへの説明まで含めひと仕事である。これが1年ともたなかった。
 Jエンジニアリング設立を機に、社内報「放電加工技術」なるものを作ったのが、YJSにも保管されていて、大変参考になるが、昭和58年の5月と10月に1、2号が出て、3号はもうJSSの発行になっている。
 すなわち、JのセールスとサービスでJSSであるが、確かにこの名称の方がしっくりする。JSSになったのを機に、私も4年3か月ぶりに大阪から戻った。これ以上、体重が増え代わりに貯金が減るのも大変だから、いい潮時ではある。余談ながら、体重10kg増やすのに約2百万円かかった。O鋼機の人の単身赴任みやげは大概胃腸病だそうだが、私は体重と下手なカラオケであった。

 本社に戻って私の当面の仕事は、受注、売り上げを伸ばすための施策大小諸々であるが、特に商品の競合力を高めるための提案などが急務であった。劣勢に立った理由はいろいろあるが、商品範囲を拡げ過ぎて、アイデアばかりが先行した売れない商品にも手を掛け過ぎているのが問題であった。例えば、新製品賞をもらった3Dセンタなどは、売れないから良いようなものの、もし売ったら信用を失うだけのものだった。
 JSSは便宜のため出来たけれども、一応は独立した企業である。経験上、信用を失うもの、営業効率の悪いようなものは敬遠したので、I社長の思うようにいかないところがあった。そんなことで、J本体の方にもシステム営業部というのをもった。金型製造システムのようなシステムの一括受注を狙おうというのである。
 このシステム営業部の部長はMさんであるが、JSSと同じユーザ先で、ぶつかることがあったりして、両社仲が悪かった。小さい会社の小さいグループがベクトルが合わずに、外に力が出せなかったら勿体ない。ベクトルを合わせるべき求心力がほとんどなくなっていたのが問題である。

 私が本社JSSに戻った頃の部長クラスには、多田さん(現S社)とサービスの責任者石綿さん(現エレニックス)が居て、社長の町田さん私との4人が集まって、諸問題を討議する機会が多かった。後にこの4人組、文革でもあるまいに更迭されるのである。

 JSSも何とか業績の回復を計ろうとするのだが、自分たちで出来ることと出来ないことがある。技術にお願いしている改良、改善も、手が分散して進行が遅い。自分たちでやろうかと考えても不思議はなかった。
 それに研究所生まれの製品は、ひねり過ぎるのか使い勝手が悪かった。1例を上げると細穴放電加工機である。せっかく良い性能を持っているのに、せま苦しい門型のものが出来てきた。JSSから構想仕様などの要望を出して出てきたのがボール盤タイプ(エドボール)でずっと使いやすく、エドマスから結構売れた。
 同じことを考えた人が他にも居て、参考にと言って我々のところに図面を見せにきた。あわよくば、オーソライズして手を組むこともできる。そんな場面を垣間見たり、話を小耳に挟んだりした人が、さも一大事発生のごとくご注進に及び、JSSがものつくりをやりだすと伝わったようである。

 JSSをそのままに放置しておくと、S社の二の舞になりかねないと、大げさなことになった。過大評価である。危機感から、かなり耳に逆らうようなことも言ったり書いたりしていたから、とりようによっては、不穏な感じも持たれたかもしれない。
 表向きはインテリジェンシーがどうとかこうとか、訳の分からない理由で更迭された。町田さんはCAD関係営業、多田さんは子会社エドマス、私は古巣とでも言うべき加工技術、石綿さんはサービス部長を解任されて後、ある人に意地悪されて退社した。
 言葉だけでは済まずに、机を動かしたり、手まで使うから恐れ入る。そんな資質を疑われるようなことをしては、良いことのあろうはずがない。

 JSSの社長はK銀行からきたHさんに代わった。経理屋さんで、放電加工機と営業には、ど素人である。補佐する幹部として、システム営業部のメンバーをつけたが、何も知らない社長に求心力はなく、業績は悪化するだけであった。
 打開する方法に行き詰まり、再交替しなければどうにもならなくなった。銀行から来たHさんは貧乏くじを引かされて、1年ほどで引責辞任と言うことになり、会社も辞めた。もっとも早めに会社を辞めていって良かったかもしれない。人生の禍福はあざなえる縄のごとしである。
 経営幹部から町田さんに、再登板の要請があった。あまりの勝手さに憤慨していたが、多田さんや私も一緒にと言うことでカムバックした。この1年で事態はさらに悪化し、自力回復は難しい状態にきていた。

 何とか手っ取り早く稼ぐ方法として、私は、アマダを担当することになった。少々荒っぽいが現ナマ奨励金つきキャンペーンで、全国のアマダセールスを動かそうと言うのである。セールスマンの鼻先に人参までぶら下げるのには、それなりの理由がある。
 型彫りの放電加工機は、NC制御装置の立ち遅れで、カラーもグラフィックも日本語も未完成で、技術的に遅れていた。性能的にも抜かれて苦しくなり、サンプル加工でも苦戦していた。
 ワイヤ放電加工機は、後退制御代わりの超音波振動も限界に来て、精度のうるさいものでは方向性が若干問題になってきた。CNC制御の遅れはコーナー制御や自動多重加工などのソフトの遅れとなって、評価を下げた。自動ワイヤ通しも未だに不安定で、トラブルが多発した。そして、それに対処する技術的能力を失うような人事を平気でやるのが問題であった。

 その頃私は、担当するアマダには時々打ち合わせに行っていたが、ある日、内緒ですがと耳打ちされたことがある。「御社の社長がお金のことで来られました。三十億円必要なそうです。」金策のため他にも訪ね回られていたのは後で知った。また、前後してアマダからJ社員に対し誰彼なしに公然と入社を誘う話もあった。アマダも放電加工機のメーカたるべく準備体制に入っていたようである。
 昭和61年7月、メーンバンクの一つである東海銀行が、取り引きを停止した。倒産する一歩手前である。もう一つの協和銀行(当時)も取り引きを停止したら、J社も終わってしまうから、いろいろな動きがあった。取引先は勿論、J社OBたちにもいろいろ支援要請に行ったようである。
 結局は、岡崎相談役が動いて、アマダとの話は立ち消え、協和銀行が取り引き継続を約束することになったが、それなりの条件が付いた。一つはI社長が会社経営から実質的に退くことである。そのためにJ社をますます縮小し、ほとんどの社員を新たにつくったJインクなる会社に集結した。
 JSSは、このJインクに吸収合併された。新会社Jインクの社長にはK専務が就いたが、それは暫定だったようで、その年のうちに、岡崎相談役が。89才のご高齢でJ社の社長に復帰した。自力回復は不可で、どこかの大手の傘下にはいることが前提だったようである。

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