ある放電加工機メーカの落日[2]
2、私の大阪時代
 私の大阪時代のことも少しは書いて置こう。何しろ前章で少し触れたら反響もあった。ただし、O鋼機のKさんでは歯切れが悪いので、差支えない限り実名を使わせていただくことにした。
 私が大阪に赴任したのは、S54年11月末で、昭和59年2月末まで居たから、大阪在任は約4年3か月間に及んだ。大阪営業所、6代目の責任者である。因みに初代から書いてみると、町田、阿部、西島、石坂、仲田、佐々木となり、後に尾道、上田、木下(新日鉄)、尾道(再)、毛利(敬称略)と続くのである。
 後になっては、とても良い経験だったと思うが、当時としては、飛ばされたと言う思いの悲痛な単身赴任であった。なかには志願して赴いた人もいるから、考え方いろいろであるが、何事も経験しておくのは悪くない。

 大阪の住まいは、会社に近く、後に大変有名になった末野興産ビルの7階である。石坂さんのときに、会社で一部屋借りて私が3代目になる。暴力団とのつながりを知っていれば借りなかっただろうが、契約後のオーナー変更である。当時はこの町に暴力団が来ると言うのでひと騒ぎした。
 昔から大阪には時々来ていたし、町田所長の時代に、約1か月間ではあるが、ピンチヒッターで兼務所長もやっているので、大体の様子はわかっている。前任者との引継ぎも三日間と言うごく簡単なもので済ませた。
 大阪では、前記Kさんこと窪山さんがEDECの社長となり、受注確保のため、西日本のサービス体制を構築すべく準備体制に入っていた。まだ社員はゼロで、女子学生アルバイターが二人居るだけの状態だった。

 私の大阪デビューは鳴り物入りで、お披露目をかねた大阪プライベートショーの開催でスタートを切った。12月のプライベートショーは当時異例のことでもあったが、低迷を続ける業績を回復する一助にと言う願いでもある。期待を背負って登板したような雰囲気ではあったが、そう思うようにはいかないのである。
 当時の大阪は、O鋼機を関西総代理店として、受注売り上げの実力は月約1億円であった。関わっている総人員は大阪の方が多いのに、名古屋の方が数字が高いのである。その理由を問われて出てきたのが、まず、サービス力なので、その強化を計ろうとしているわけであるが、それだけの問題でもなさそうである。名古屋の方がサービス力において格段に優れているというわけでもないのである。
 O鋼機は、今は知らず、当時は6時にはほとんどの人が退社した。営業も業績による査定は微々たるものだから、無理しないと言う考え方が支配していた。その平均値を破れば異端児である。当時のJ社員はO鋼機のなかに入ったら異端児であった。

 商社であるから、当然なこと、儲からない商売はやらない。商売がハードになって、逃げ腰になってくるのはある程度やむを得ないようである。要するに競合が厳しくなると体質的に抵抗力が弱い。
 一例を上げると、松下およびその関連である。UF電源のサービスの弱体が効いて、信用がガタ落ちである。O鋼機は行ってもムダだとばかりの敬遠策である。そんななかで、かなりハードな競合があった。O鋼機は早いとこギブアップである。一人粘って受注したが、その手間ひまを考えると、無償残業制限を辞さない我々にしかできないことかもしれない。
 着任した次年の4月から、EDECも社員を採用し、初期の目的であるサービス活動を開始した。サービスが良くなって悪いはずがないが、営業が売れない理由はそれだけではない。逃げ道に一応蓋をして見るが、それが本質的な問題ではないことが間もなく分かってくる。

 私も1年近く大阪をやってみて、メーカとしての自前の戦力を持たねば、先の見通しが持てないと痛感し、対策を求められるままに、中堅幹部2名の選出派遣を本社に依頼した。割合に早リアクションがあり、次の所長になる尾道さんとサービスの責任者として有馬さん(故人)を派遣してきた。
 かくしてS56年、大阪のセールスとサービスの体制はかなり充実してきた。私は松下をはじめとする大手企業を担当することになった。大阪の数字がある程度の水準に達するまでは、大阪で一緒にやってくれということである。
 そのうちに、O鋼機の関西総代理店辞退の問題が起こったのである。否応なしにその対応に追われた。当面は手薄になったところを、私が動くことにしたが、岡山以西、山陰、九州、四国など結構テリトリーが広い。この時期にご訪問した商社、ユーザさんとのお付合いが、今でも続いていてありがたい。 

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