ある放電加工機メーカの落日[4]
4.銀行の支援と大手企業の傘下

 昭和61年(1986年)の暮れも押し詰まった12月27日に、取締相談役の岡崎嘉平太さんの社長復帰と、K銀行の全面支援が、工業新聞のトップで報じられた。62年の3月までに、再建策をまとめると言うのである。この時点での負債額が長期借入金他で百億円を超えると書かれている。
 89才の高齢になられた人の社長復帰は、前例をあまり知らないが、この難局を乗り切るには、他に適当な人材がいなかった。それにしても、間もなく90才の人が社長をやるというだけでも大変なことである。
 K銀行からは、とりあえず三栖さんという人が代表として乗り込んできた。少し遅れて、二番手として総務と営業に部長クラスと言う人が出向してきた。営業にきたAさんには、私が、机を並べて面倒を見ることになった。たまたま同い年である。

 Aさんは、K銀行では三栖さんの部下だったことがあるとかで、三栖さんが、自分の腹心として他の出向先から引っ張ってきた。銀行営業としては、それなりに実績、手腕があると言う触れ込みであった。
 営業部では、特販営業部長として、K銀行の影響力の強い企業を回って、受注しようというのである。そうなれば、最低限の商品知識は当然必要だろうと、資料を渡したり、レクチュアしたりしたが、Aさんに勉強する気はほとんどなかった。
 個人差も大いにあるとは思うが、50才台になっては、頭も固くなって、新しい知識がなかなか吸収できないのも無理はない。その後に銀行から入ってきた人では、初級講演会半日で、頭痛リタイヤという人もいた。

 商品知識が乏しい状況で、メーカ営業をやるのは辛いもので、私も電解加工などで経験があるが、どうしても腰が引ける。若いうちは許されるが、それなりの年齢と立場があると、知らないでは済まないこともある。
 銀行の顔だけの、腰が引けた営業をやっていても、成果になかなか結び付かない。今まで長い間、銀行員をやっていた人よりは、ユーザの技術の責任者、担当者の方が詳しくて、話がそちらに行くと太刀打ちできないのである。

 62年の3月3日に、再建策として、新日鉄に傘下に入ることが、ある新聞にリークして報道された。社長も含めて新日鉄から来ると言うのである。その後、先駆として宮田さんと言う人が営業部にはコンタクトしてきた。かの有名な新日鉄釜石のラグビー部にいたという人で、釜石が大リストラをやった影響で、かなりの余剰人員が出た。会社も救済策として、受け皿企業を傘下に入れたり、新しい仕事を生み出したりに、躍起になっていた。6月には、副社長として富永さんというプラント事業部副事業部長と、部長級幹部5人ほどが入ってきた。いずれも東大とか京大とかの出で、営業にきた宮田さんだけは、ラグビーの関係か知らん、慶応だか早稲田だかであった。

 そんなわけで、J社は一時的にしろ、高学歴・逆ピラミッド型の会社になった。かつては大手企業の人が一人入ってきただけで、一騒動持ち上がったのに、これだけの影響力の強い人が一時に入ってきたから、社内てんやわんやの混乱である。
 K銀行はまた、三井物産にも支援要求したので、社内には、銀行さん以外に、新日鉄、三井物産と賑やかになってきた。特に新日鉄の人達は、横文字に堪能で、自前のワープロをそれぞれ持っていて、そんな面でも、社内に影響を与えていった。
 例えば、新日鉄からきた東大出のKさんは、会議のメモとか、手帳に書くことは全て横文字である。会議の議事録をその場でワープロで叩いてしまう能力の持ち主も居たりして、当時としては少し驚かされた。

 困ったことに、会議や打ち合わせでも何気なく、カタカナ文字を多発されると、言っていることが理解できなくなる。こんなこともプロパーの連中との垣根の一つになって、なかなかしっくりとはいかなかった。
 こんな関係に嫌気がさしたか、見切りをつけて、会社を辞めていく人も増えてきた。会社のためには惜しい人材が辞めて行き、実際の戦力が低下していくのには困ったもので、明らかなジリ貧状態になっていった。

 それを補うために、新日鉄からは、その後比較的若い人にも来てもらったが、若い人は、環境の変化にも順応しやすく、それなりの戦力になった。なかでも加工技術にきたブルーカラー三人組などは較的優秀だった。当時、地元高校から新日鉄に入れるのはクラスでも三番以内だということから、割合粒は揃っている。
 一方、J社に乗り込んできたエリート達は、J社の衰退の一因は、少数主義にあったと聞いて、問題点対策の一環として、やたらに社員の募集、採用を始めた。そうなると、大手企業の人達には困ったもので、数合わせがノルマだとばかりに、質は放っておいて、でたらめに人数だけを稼いでくれた。
 真剣に会社のこと、その人のことを考えたら、社員の採用は、もう少しは慎重であるべきだと思うが、会社のことよりは、目先の保身がより優先する出向者も居て、数が足りなきや、誰彼なしに入れてしまうから、関係者は大変に迷惑した。

 余談ながら、昔、モスクワのモーター工場を見学したことがある。ずいぶん作業環境がひどいので、トロリーバスが、故障続発するのも無理ないと思ったが、工場長はノルマの達成率がいかに高いかを得意げに語っていた。
 生産数が減るとクビが危ないとなれば、品質は二の次である。ついでに言うと、私が乗っていたトロリーバスのモーターからも煙が出たが、お客はまたかと顔色一つ変えずに降りるだけで、運転手は一番の被害者だから、乗客にソッポを向いているだけであった。
 営業の方に話を戻すと、銀行の影響力だけが頼りのA部長、各地の支店にお願いして、何とか受注を上げようとするが、銀行にもそこまでの力はなかった。1年間やってみたが結局、受注は皆無であった。お客さんとの会話がうまくいかないのである。

 商品知識以前の問題もある。技術屋が何気なく話している言葉が、畑違いの人には、理解できない。英語に弱い人が、カタカナ語混じりの話が理解できないのと同じである。努力していかないと会話がすんなり通じないのである。
 親しい友達どうしとか家庭なら、「わかるように話せ!」で済むが、こんなことも知らないのかと思われるのがしゃくで、わかったふりをするところに誤解が生ずる。誤解によっては、イエスとノーが逆になったりするから怖い。
 またも余談で、昔の話ではあるが、オーストラリアの家庭で、奥さんの手づくり料理を満腹するまで御馳走になったことがある。最後に「エナッフ?(充分か?)」と聞くから、つい「イエス」と言ってしまったら、デザートのアイスクリームがごっそり追加された。この程度の誤解は良いけど、人生を左右する誤解もある。

 Aさん、受注は難しいので、何か他の面ででも貢献しなければと、管理職の日帰り出張手当ての撤廃による経費節減を提案した。銀行には日帰り出張には手当てがないと言うのである。三栖さんがすぐ採択して実行に移した。
 この結果、大阪でも岡山でも頑張って日帰りにしていた人が、一泊して帰るようになった。無理して日帰りすると手当てがゼロで、悠々と泊まって帰ると二日分の手当てがもらえるのである。らくをすると手当てが付くとは、はなはだしい矛盾である。日帰りしたのに一泊したことにする人まで出てきたから、あまり経費の節減にはならなかった。
 その後、Aさんの下には二人ほど若い部員をつけたので、徐々に数字が出るようにはなった。最初の触れ込みからしても、いつまでもゼロ行進では具合が悪いので、三栖さんの配慮である。

 銀行や、新日鉄の人が来ても、業績は一向に好転しないが(好転する理由がない)、会社近辺の飲み屋の売り上げだけは確実に上がった。出向者の出入りも多いし、うたかたのような社員採用もやるので、歓送迎会も多いし、気心を知ろうという懇親会もあった。
 新日鉄からきた東大出のKさんなども無類の酒好きで、銀行からのAさんに劣らない。帰りが一緒になったら、必ずのように誘われるので、たまには付き合ったが、なかなか止めようとしないので、適当に逃げ出さないと、終電に間に合わなかった。
 岡崎さんがご高齢で、かつ他の仕事もお持ちなので、実際の経営実務は各社を代表する役員の合議制で行なわれた。船頭が多くて、しかも各社の利益代表だから本当の意味での会社再建のリーダーシップは難しく、前途は多難であった。

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