ある放電加工機メーカの落日[1]
 ●まえがき
 昭和50年代の半ばまでは、一応、国内では放電加工機のトップメーカーと言われていたJ社が、わずか数年後には経営危機に陥いった。そのへんの事情を私なりに書いてみる。前号にも書いたように、他山の石となれば幸いである。
 当時、私は経営の中枢を知る立場ではなかったし、経営についても良く知らないので、どれだけ真相に迫れるかの危惧はあるが、こんなことをやっていたら会社が危ないと感じたことは再三ならずあるので、そのへんのところが私のテーマではある。
 もっとも、私自身も、ある会社の社長からは「あなたにも責任の一端はある」と言われたように、自分のことを棚に上げて、人を責められる立場ではないようである。個人攻撃は可能ならなしにしたいが、人なしに会社経営のことは書きようがない。
 ともかく、あの時ああすれば、こうすればと後で思うことがいろいろあっても、時は戻らない。同じ轍(わだち)を踏まないように、せめて書き残して置こうと思うのである。真実と違うことをお気付きの方は、お知らせいただければまことに幸いである。

1、豪華本社ビルの建築と記念プライベートショー

 資本金1億円の会社が、二十数億円を投じて建築した本社ビルが、昭和55年末にほぼ完成した。場所は当時池貝鉄工溝の口工場の隣接地、川崎市高津区である。各階500坪(約1650平方米)の5階建てで、地下機械室も加えて、延床面積2,600坪、高さは約25mの煉瓦づくりの建物である。
 因みに営業部とショールームおよび講習室のあった東京都世田谷区瀬田のPMセンターは延100坪(約330平方米)で溝の口の本社も似たり寄ったりの2階建てだから、それらとは比較にもならない広さをもつ超豪華版である。
 この建物が周囲を圧して、既存の建物は、みな小さくみすぼらしく見えるようになったのはやむを得ないが、隣接の工場も貧弱に見える。非生産エリアの大きい分不相応な本社ビルに金の掛けすぎの感である。これによって何か大きくバランスが崩れてしまったような気がした。

 この建物で特に奢っている1例を上げると、本館5階の約200坪の役員専用フロアと言うものである。社長室とか役員会議室とかVIP用応接室とかがあるが、とりあえずの常駐者は受付け兼役員秘書の女性2人だけである。
 I社長は、社長であるより、研究所の所長兼研究者である方でお忙しいらしく、会議とか来客とか特に用事があるときしか、この建物には現れない。せっかく豪勢な社長室も空き家である方が多い。
 K専務は常時4階の役員室に陣取って居たから、用事がなければ5階に行くことはない。女性2人も常駐の意味はないとなり、1人に減らし、ついには無人になった。辞めたと言う話もあり、大体誰も来ないようなところに1日中1人で居たら嫌になる。

 後年、会社経営がピンチになったとき、冗談半分ながら、このスペースを賃貸してはどうかと言う話が合ったほど、勿体ないスペースである。
 この建物の企画、レイアウトの責任者は当時総務も担当していたK専務で、その下で、お気に入りの人たちが何人か参加した。当時私は、大阪に勤務していたので、逐一のことは知らないが、反対を唱えるような人には参加させない。
 私も、大手企業流の世渡り術として教わったのであるが、上司の考え、意向などを諸情報からキャッチして、その意に沿って早めに動くべしと言うのである。ゴルフの好きな上司ならゴルフのコンペをアレンジしたりする人は重用される。温泉旅館でマージャンを企画した人も、そのように教わっていたのであろう。
 そんなわけで、建物にもほとんど自分の思うような構図ができたであろうし、それに迎合するような連中が側にいた。工事を請け負ったK建設は、建築費の上がる方向には大賛成である。

 この本社ビルのお披露目を兼ねたプライベートショーが、昭和56年2月24日から5日間にわたって開催された。5日間のロングランは、後にも先にもこの第11回だけである。ニューテクノロジーショーとか銘打ってかなり力を入れた。何しろ金利や経費の負担増をも稼ぎ出さねばならない。
 この時の展示品の目玉は、CAD(金型自動設計システム)と、棒状電極で創成加工しようというEDMセンターと名付けたものである。浸積式のワイヤ放電加工機も高速ワイヤ放電加工機として出品された。
 この建物はL字形になっており、短い方を本館、長い方を開発棟と称したが、開発棟1階がショルームになっており、約3百坪のスペースに、展示品が所せましと並べられていた。本館の1階は、ホテル風のロビーと、中2階の6応接室になっており、2階分の高さがゆったりした空間をっつくっていた。

 来場者にはその地区の担当営業が付いて、説明しながら一巡するのが、一応のルールになっているが、数回もまわるといい加減疲れてくるので、自分もお客も興味がないか、すぐ売り物にならないようなものは、省いてゆくようになる。
 目玉のCADもEDMセンターも、まだ未熟であるが、製品説明用のパンフレットでは一番スペースを割いて説明がなされている。それを今読み返しているが、メーキングしたデータをよくも平気で並べたものだと思う。
 将来と現実が混乱してしまったような内容で、実証できるようなデータではない。こんな嘘が平気で書かれるところに問題があった。誰かが、手形を切っても期限までに落とせればよいとか言ったが、技術的には不渡り手形になったものがずいぶんある。

 お客さんに、インタレストで、しっかりインプレスしたかと言うのが、ある人の口癖のようだったから、それに感化されて、過剰表現になりがちであった。それが高じて嘘と本当の区別がつかなくなるのである。
 この5日間のプライベートショーには、約2千人の来場者があったと記録にある。私は大阪からの出張であるが、当時関西総代理店・O鋼機の関係メンバーも新社屋を見がてら全員交替で来訪した。そんななかで、こんなに建物に金をかけても良いのと言う声も聞かれなかったわけではない。
 O鋼機では、関西総代理店としての売り上げを上げてゆくには、サービスがネックだとして、J社と共同出資で電気加工技術センタ(EDEC)なる会社をつくり、O鋼機では当時部長のKさんが社長に就いていた。J社のサービスが弱体なためのやむをえぬ自衛の処置である。

 そもそもサービス弱体の発端は、Iさんの社員50人が適当と言うマスコミに対する発言である。50人を越えると目が届かないと言うのである。マスコミにはインプレスはしたであろうが、商売をする上でははなはだ感心しない。お客を軽視した身勝手な発言ととられてもやむを得ないし、社員にも不安を与えた。そんな発言にも取り巻き連だけは素早く反応して、増員はおろか補充すらしないと言うのだから、過剰反応である。自分の部下が辞めてS社に行くと言うのを報告に行って「お手柄」と言われたのでは情ない。
 サービス要員を補充するのを怠っていて、二十数億円の本社ビルでもなかろうと言うのは当然のことである。商社は俗に手離れの良い商品を好むから、サービス対応の小会社までつくって販売するのを望んでいるわけではない。総代理店辞退の方向に動いていった。

 もう一つの問題は、J社の幹部が謙虚さを失い、傲慢になっていったことである。少し後だがこんな話を聞いた。
 O鋼機の工作機械担当役員が、あるJ社幹部を用事があって訪ねた。J幹部の態度が大きく、販売していただくという姿勢ではなく、売らせてやるという態度で、最後には激論になって「出て行け!」と言ったとか。同席していたと言うKさんから聞いたが、総代理店も辞退したくなるような言動である。
 下は上を見習うで、O鋼機へのJ社中堅幹部以上の不遜な対応は、後に辛辣な評価を受けた。商社の意見なり、要望なりを真摯に受け止める度量がなかったのはまことに残念なことではある。十数年続いてきた総代理店辞退が一事ではあるが、一事が万事で商社を追いやる方向にいってしまったようである。

 その間隙をぬって着々とS社が代理店網を育みつつあった。J社と言う反面教師がいるから、その反対のことをやればほぼ間違いないと、考えたのかも知らん。J社は生産工場を持たない会社だったが、S社はそれも反対をいった。余談ながら、S社のタイ工場を見学に行ったが、生産工場のものづくりの力強さを感じてきたしだいである。

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