形彫り放電加工は
如何にして育まれてきたか?
佐々木和夫
● EDMアプリケーションの模索と当時の会社風景

 昭和31年7月、私の入社した頃は、初期の放電加工機は出来ていたが、そのアプリケーションが明確に定まってはいなかった。試行錯誤していた時代である。そんなわけでニーズのありそうなものには、いろいろと手を出していた。とりわけ重点志向していたものには、放電研削がある。外国機が輸入され東芝タンガロイあたりで試験的に使われていたのも刺激になったかと思う。

 そんなわけで、私も放電研削に関する実験は、さんざんやったというか、やらされたというか、何しろ新入社員、命じられるままにやるしかない。主題とはちがうので、詳細を述べるつもりはないがテーマのみ並べておきましょう。
 1. ベアリングボールのヘッダーダイスによるバリの放電研削(NSKとの共同実験)
 2. ステンレス鋼板の圧延時発生するスケールの放電研削(日本冶金との共同実験)
 3. 超硬合金バイトの放電研削(商品の試作)
 4. 工具、部品などの総型放電研削盤の試作実験(通産省補助金)
 などである。研削の需要が多いということと、型彫りは電極消耗による形状のくずれが大きくて、それほど伸びないだろうという懸念もあったかと思う。

 それと放電切断がある。ワイヤで切るのと、帯鋼で切るのとを実験した。いずれも当時の技術では、ツールの方がブレークしやすいのが難点であった。さらには放電による超硬合金の表面被覆がある。金属の表面に超硬を付着させて耐磨耗性を持たせようというのである。この装置は商品名デポジトロンとして結構売れたが、後にスタンレー電気に製造販売権を譲渡した。
 アプリケーションは、ユーザに聞くべしということで、前報にも記したように近隣の大手企業によく出掛けて行った。もちろんPRでもあり、あわよくば受注したいこともある。幸い川崎地区には大手の製造業が多い。近い方から、富士通、日電多摩川、東芝タンガロイ、東芝堀川町、柳町、富士電川崎などがあり、品川の沖電あたりまでは足を延ばすこともあった。これはまったくの私事余談で恐縮であるが、私の家内は当時20歳で東芝タンガロイの総務課に居た。

 このような大手のなかでも、特に日電工具課の小川さんが放電加工のアプリケーションに熱心であった。当時の工具課長が清田さん(故人・後にJ社専務)である。担当者は小川さん(後に電子加工研究所)で、たまたま日本放電加工研究所(後のジャッパクス)からの徒歩の範囲に住んで居られた関係もあって、比較的頻繁に情報の交換を行っていた。間もなく二人のコンビで放電加工技術研究会の幹事をやることになる。放電加工のプレス抜き型へのアプリケーションに関しては、この小川さんが私の先生のようなものである。当時、社内には金型についての詳しい人は誰も居なかったので、ユーザの金型担当者より教わることが多かった。時代背景を垣間見るために、この時期の私生活と会社の状況について、少しお話してみましょう。技術的なことだけではつまらないという読者も居られるようだ。会社を換わることによって、職場環境の落差も極端なら、経済的なメリットも予想外に大きかった。月給は20円しか上げてもらえなかったが、徐々に加工機の売り上げが伸び始めていたので会社全体が忙しく残業は無制限の状態にあった。特に秋口からは、井上さんのEDMの基礎理論の構築も手伝えということで、毎日、夜の8時に担当職務からそちらの仕事にまわることになった。

 連日のように、午前1時か2時までの残業である。終電もなくなるので、電車通勤の人達のためには、バス替わりに3台ほどのハイヤを呼ぶのである。夜食は会社より支給されるし、週1回の休みである日曜日も出勤なので、金を使う時間もない。とうとう給料袋の封を切らずに、次の給料日まで持っていたことがあった。翌32年春このプロジェクトが一段落した時、二つの給料袋を持って、少し贅沢しようと久し振りに町に出てみたが、2本目のビールが飲み切れずにダウンしてしまい、二人で千円も使えなかった。
 このプロジェクトの遂行時期は冬なので夜中は冷える。大きめの角火鉢に炭火の暖房であったから、隙間だらけの木造の建物でなかったら一酸化炭素中毒になりかねない。寮に帰っても風呂がないので、たまに工場の隅にある古川貞三さん用の木製風呂に入れてもらうのであるが、何の囲いもないので、工場にあまり人がいなくなってから入るのである。

 話が戻って、この基礎理論プロジェクトにより、放電加工の基本的原理がいろいろ解明され、井上さんの学位論文として、東北大学の理学部に提出され認められた。EDMによる学位の第1号である。この時私も仙台の旅館で一緒だったが、何故か費用が足りなくなり、会社から電報為替が届くまで旅館の人質にされた。電報為替を受取りに行く郵便局にまで旅館の女中がついてきたのには、いささか閉口したものである。
 この年、鉄筋コンクリートの事務所兼研究所(後にエドマスが入っていた前半分のみ、今のYJSほどか)が建築されたが、何しろそれまでの建物がひどかった。あちこちに雨漏りするので、危ない所には大事なものは置けない。台風の時、雨漏りの警備に当たったことがあったが、軋み音が激しくて、生きた心地がしなかった。どこに漏ってくるかわからないので逃げ出すこともできないでいた。

 この年の4月には、創業以来初めてである新卒社員が3人入社してきた。渋谷さん(現放電精密)、矢部さん(CAD/P開発)で、もう一人は当時としてはまだ少し珍しかった女性エンジニア新行内さん(現渋谷夫人)である。この後新卒も続々と入って来たが、誰がいつかは定かには覚えていない。かくして日本放電加工研究所もヒト、モノ、カネが整いはじめ、社名もジャパックスへと変更されてゆくのである。またこの年に放電加工技術研究会も発足するのである。

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