形彫り放電加工は
如何にして育まれてきたか?
佐々木和夫
● 「放電加工」の世界に入った経緯と当時の放電加工

 昭和28年7月に池貝鉄工の子会社として創業した日本放電加工研究所も3周年を迎えようとしていた。放電加工機の製造販売がやっと軌道に乗り始めた時期である。メカは池貝鉄工に全面依存し、電源・制御は研究所で設計製作し、ドッキング、調整して出荷するのである。営業は池貝鉄工が各地の営業所を拠点にして実施していた。
 放電加工のPRも徐々に効いてきて引き合いも増え、製作の方が追われてきつつあり、人手の確保も必要としていた。私の入社した31年頃は、総務、経理なども含めて総員20人足らずであったから、今のYJSグループよりも少なく、かつ生産力の強化とか新しいハードやアプリケーションの開発とか課題は山積していた。

 そんな状況のとき、従兄弟の丹羽義栄東工大講師が顧問に就いたので、私も人手確保候補の一人に上げられたらしい。「放電加工」の将来が不明確な時期なので、従兄弟からの直接の誘いはなく、私の入ったばかりの会社に日本放電加工研究所の井上常務(当時)、二村さん(現放電精密社長)らが訪ねて来て勧誘を受けた。
 入ったばかりの会社を単純な動機で辞めるわけにはいかないし、良い先輩にも恵まれて特に不満もなかったが、たまたま住まいについてだけが不安定な状況にあった。上京し、当面の約束で転がり込んだ叔母の家を出るべく、下宿探しをしていたが、初任給11,500円では結構負担が大きく、あちらこちらと迷っていた。そんな時、池貝鉄工の寮は月150円で朝昼の食事は月1,250円というのには魅かれた。

 そこで、もう2度と降りることもあるまいと思った南武線「溝の口」駅に以外と早く降りる事になったのでした。経理担当の金子さん(故人・後の社長)からは給料も上げてやるとかいろいろの好条件をいただいた。井上さんからは駅の近くの小料理屋で御馳走になり、「放電加工の現状と将来」などの話を伺ったかと思う。
 もう少し検討してなどと思っていたら、間もなく決心せざるを得ない出来事が起こった。叔母の家から、私の荷物一切が突然「溝の口」に持ち去られてしまったのである。荷物の後を追いかけてきたら、日本放電加工研究所の工場の片隅にある八畳間の部屋にたどりついた。古川貞三さん(故人・現ソディック古川社長のご尊父)の居室で、寮があくまで同居させていただいた。夜のつれづれに囲碁の手ほどきなどしていただいたのが、今の私の趣味の一つになっている。とにかく親切にしていただいた。

 それに私の先輩格として、いろいろと面倒を見て頂いたのが二村さんである。同年輩には古谷氏(現コタニ商事・第1号社員)や永冶氏(現協永産業)が居て、この2人と古川さんが加工電源を自ら製作する主戦力であった。私にはメカ関係をやれということで、池貝鉄工技術部に席を置いていただいた。ここにクラスメートの久野氏(現愛知工大教授)が居たし、池貝全体では十数人の先輩たちも居て何かと便宜をはかっていただいた。
 当時の放電加工機を表すキーワードをいくつか上げると、モーターサーボ、コンデンサ電源、真鍮電極、白灯油というところか? 前述のようにメカの関係は全面的に池貝でやっていたが、モーターサーボのみでは加工が安定しないので、マグネットサーボなるものと併用していた。極間に短絡現象が発生すると、電磁力が切れてスプリングで電極をジャンプさせる仕掛けである。モーターサーボの時間遅れを補って加工の安定に威力を発揮した。昭和43年に油圧サーボが実用になるまで、このサーボ方式が延々と継承されたのである。

 加工電源はコンデンサ方式で、基本をRC回路に発し、加工性能を上げるために数次にわたる改良の結果、コンデンサ方式では世界的にもトップレベルの電源に育ちつつあり、後にアメリカELOX社に技術供与をするまでに至った。当時この回路の略称G回路の意味を聞いたら、無抵抗回路すなわちガンジー回路略してG回路だと。その後改良されてGS回路となり、コンデンサ方式電源の性能では世界に敵なしとなった。
 電極は真鍮オンリーで、鋼材に対し、電極消耗率約100%であったが、放電加工の原理からして当然と考えられていた。消耗の補正方法をいろいろ工夫して実用していたのである。もっとも代表的なのはストレート貫通加工で、これは電極の長さで補正すれば良いのでアプリケーションとしては一番簡単である。そのためプレス抜き型などに用途が広がりつつあった。

 加工液には市販の白灯油が使われていたので、時々石油ストーブ用に汲み出して持って行かれたりした。フィルターのキャパが小さく、加工層内はいつもドロドロ真っ黒のため、2、3日オペレートすると、汚れと匂いが染み付いてなかなか離れない。それに夏場などには手の皮がむけるのには困った。デートのときなど具合が悪いので、石油メーカにいろいろお願いし、人にやさしいものに改良されていったが、それはかなり後のことである。
 当時の放電加工機は加工電源が手作りのようなもので、月に3台つくるのもやっとなので希少価値が高かった。したがってコストに比してはかなり高く売れた。大卒初任給の100倍のお金では買えない価格なのである。2台も売れればペイするという話も聞いた。とにかく今まで見たこともない機械ということで、プライスリーダーの位置をある時期まで占め続けたことは確かである。

 そんなことで、経営にも明るい見とうしが立つようになった頃に入社したわけで、創業以来3年目にして初めて夏のボーナスを出すということになり、私も帰省の足しにということで5,000円いただいた。会社もかなり忙しくなってきて残業もやたらに多くなり、残業代だけでも生活費が出るという状態になってきた。放電加工の普及発展にさらに拍車をかけるべく、新しいアプリケーションを求めて近隣の大手電気メーカを足しげく訪問する井上さんのお供で、私も会社訪問が多くなり、後の放電加工技術研究会の発足へとつながって行った。