ある放電加工機メーカの落日[6]
6. 終章
 新日鉄から新社長を迎えての新体制がスタートしたが、事態は好転せず、坂道を転げ落ちていった。この経営体制に見切りをつけた有能な人材の流出が続いていたので、体力は低下して行く一方である。 「J社はまるで放電加工技術者の養成学校だ」と誰かが言ったのを聞いた。今更のことでもないが過去大勢の人が辞めていった。事情はいろいろあって一概には言えないが、せっかく育った人材が、その企業に止まらないのでは、企業の発展に良いことはない。
 新日鉄体制になってからの補充は、新日鉄からの出向者や、新規中途採用によったが、退職者と同等の戦力になるまでは容易なことではない。しかし他に方法もないので、新人を教育して育つのを待つしかないが、これでは競合に勝ってこない。
 しかも、その頃は今と違い求人難の時代で、中途採用者に多を望むべくはないのである。それにしても大企業、銀行から出向の人達の人員採用は出鱈目に過ぎて、会社に与える損害は小さくない。

 多くは書かないが、入社後1か月ほどで突然失踪して、詐取した相手先の法人、個人から問い合わせが相次いだ東南アジアの男とか、最初の定期券代を飲食に使ったらしく通えなくなって辞めてしまった若い男とか、加工技術部で研修中の段階のため尻ぬぐいが私にきた。給料払って、教育の手間ひまをかけて、会社には迷惑だけ与えたのが10人くらいは居たように思う。
 こんな信じられないようなことが起こるのはまともな企業活動ではない。末期的な現象である。当時の出向総務部長が、会社のことよりも、上から命令の数合わせの方を優先した結果と言って間違いない。何しろ無差別に百人も増員しようとしたのである。
 平成2年4月の日本工業新聞の一面トップ記事に、「経営再建計画スタート」と言うのがある。大きい字だけ拾うと、〔新日鉄の支援具体化〕〔営業強化に体質転換〕〔本社など全面移転〕などで、記事のいろいろの中に、百人増員と言うのがある。

 他にも、記事の一部を参考にあげると、「同社はこれまでに新日鉄および協和銀行と資本関係を締結するとともに、役員を一新するなどして再建に取り組んでいた。それでも業界内部には、〔再建は困難だろう〕(競合他社首脳)との見方も強かった。しかし、今回明らかになった強気の再建計画を進めることによって〔復活は果たせる〕(野明社長)と自信を見せている」とある。 同じ年の7月の日刊工業新聞には、「J社放電加工機の失地回復へ」と言う記事が載ったが、J社は長年住み慣れた発祥の地川崎市高津区溝の口を売り払って、東京都世田谷区瀬田と横浜市緑区長津田とに分離移転することになった。
 本社などの全面移転だけは確実に実施された。収納スペースが大幅に減少するので、応接セットなど、かなりの物品が処分の対象になった。書庫の資料類も例外ではなく、私が総務の依頼で取捨選択した。商業雑誌類や特許公報など出版社からでも入手できる類いのものは一切処分し、放電加工技術研究会誌のバックナンバーやJ社創業時のオリジナルな報告書、実験レポートなどは残すことにして仕分けしておいた。しかし何の手違いか移転先に届いていなかった。

 誰かの勝手判断で処分された疑いもあるが、会社の浮沈が問題の時期なので、追及することは断念した。移転騒ぎのどさくさで歴史を書く上では惜しい資料類を失った。 溝の口移転に先立つ平成2年の秋、創業者の一人である創業時社長の岡崎嘉平太さんが突然亡くなられた。この時点で、一つの歴史が終わったのかもしれない。岡山県出身の岡崎さんが池貝鉄工の再建のため社長になり、郷里の同窓である杉山さんから、その教え子井上さんを紹介されたことが発端のJ社なのである。

 閑話休題、故岡崎さんの思い出話を一つ。入社した翌32年の秋、会社の慰安旅行で、私が幹事をやらされた。観光バスを1台チャーターして、紅葉の奥日光に行く計画である。岡崎社長も参加するから途中でピックアップしてくれと言われる。
 確か国道沿いの指定場所で岡崎さんを見付け、若年幹事はバスから飛び降りて深々とお辞儀をした。間近に岡崎さんと接した最初である。奥日光は湯の湖のそばの旅館だったが、翌日、最年長還暦前後の岡崎さんが、そこから中禅寺湖まで戦場ヶ原の湿原を歩いて行かれると言う。幹事としては予定外なので弱った。
 この企てを聞いた面々が我も我もと岡崎さんの後ろに従ったので、二日酔いの人だけがバスに残った。夕べの宴会ではかなり飲んだので落伍者が出る心配があり、バスを伴走させながら、伝令に走ったりして、生真面目幹事としてはかなり神経を使い印象が強かった。

 そんな少し後には、政府代表の高崎達之助代議士らと中国は北京に行って、周恩来首相らと会い、民間の代表として交渉に当たられたのだからお忙しい。
 そんな頃から、井上さんは、団体での旅行などはお嫌いのようで、奥日光にもその後の旅行にも参加されたという記憶がない。その後はグループ単位別旅行を提案されたりして、会社全体での旅行はなくなっていった。旅行でも人数の多いのはお好きでなかった。
 話し戻って、強気の再建計画案、失地回復策も空しく、売り上げは低迷した。新聞相手には嫌になるほど百億円以上(年間売り上げ)の目標数字が唱えられたが、実現しなかった。前述のように退職者がでて実戦力が低下したのもあるが、著しい伸びを示すS社に有力な商社やユーザをとられていったのも大きい。

 毎月赤字のJ社が重荷になってきた新日鉄では、岡崎さんが亡くなられた秋口以降から密かにS社へ打診を始めていったようである。当時のS社は、鈴木さんが社長で、古川さんは会長になっていた。 この話が前向きに進んだようで、翌平成3年3月日刊工業新聞のトップ記事で、「S社J社を傘下に、株式の60%取得、放電加工機最大手連合の誕生」と言う見出しとなった。資本金を2億5千万円に増資し、増資分をS社が出資すると言うのである。
 もちろん記事になる前から、いろいろな情報が乱れ飛んではいたが、昔JからSに移っていった人の言った「どうせいずれ一緒になるんだから良いじゃない」と言う言葉が印象に残る。もしも十数年前にここまでを見通していたとしたら脱帽する他ない。
同月の下旬には、「J社再建へ人事生産面でテコ入れ」なる記事と、S社では副会長の和泉さんが新社長と言うことで、そのプロフィールが紹介された。新日鉄や物産、銀行からの役員はすべて退任の予定とある。この時点での新日鉄からの出向社員は19人になっていたが、ほとんど引き上げることになろうとある。

 和泉さんの社長就任から少し遅れて、神宮司さんが営業主担当の副社長として入ってきた。奇しくも、J社昭和40年代初頭の技術部長と営業部長である。個性的なお二人で、その当時は、それぞれの立場を主張してよくやりあっていたように覚えている。
 社長と副社長の考え方や指示に相反することがあった。このような双頭体制の意図するところは今一つ不明だが無駄なことも多い。そんなこともあってか、業績もさほどの伸展を見せなかった。こんな無駄な状態が長く続くのは良いはずがない。
 翌年の4月上旬には、「提携強化で合併早める」と言う新聞記事が載った。業績に大差がついては吸収合併である。売り上げで並んでからわずか数年間の出来事で、J社は退職者続出による技術の空洞化が主要因と書いた新聞もあった。

 その年の7月末には吸収合併の記事が出たが、予定されていた路線なので、扱いは簡単だった。しかし、この間、S社にも若干業績の停滞があり、6月の株主総会で、古川さんが会長から社長に復帰した。社長には社長としての適不適があるようで、他に高い能力があっても社長業務には資質的に向かない人もいる。
 「技術者としては超一流だが、経営のプロではなかった。」岡崎さんがある雑誌記者に井上さんのことを質問されて答えた言葉である。経営のプロが居ない企業は落日の運命にあるのかも知れないが、放電加工のパイオニアとして、多くの人材を育て、わが国放電加工技術の普及発展に寄与した功績は決して小さくないものと思う。

おわり
 最後は脱兎のごとくひとまず終わらせていただきます。他山の石にしていただければの思いで書いてみましたが非才ゆえ意外に書きにくいものでした。ともかくご声援ありがとうございました。次なるものを目下検討しております。
(佐々木)

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