形彫り放電加工は
如何にして育まれてきたか?
佐々木和夫
● コンデンサ電源からトランジスタ電源への過渡期のこと

 昭和41年から42年にかけて、電極低消耗電源による底付型の加工もいよいよ本格的になってきた。電極個数が1個か2個で出来るようになったことは、放電加工の歴史でも画期的な出来ごとである。しかし、ただちに爆発的な更新需要があったわけではない。電極低消耗条件は、まだ未熟で加工性能の問題がある。同じ面粗さを得る加工速度は一桁ぐらい低い。オーバーカットも大きくなった。梨地面が硬化し磨きにくくなった。それをカバーするための加工技術がまだ不充分であった。鍛造型加工のあるユーザから次のようなことを言われたのが、このへんの事情の一端を物語っている。「低消耗電源は能率が悪くて、さほどのメリットなし。今までの電源では消耗するが、仕上げに使った電極は次の金型の荒加工に使えるので順番にやっていけば1型加工して、まったく使えなくなる電極は1〜2個に過ぎない。従来の電源の方がベターである」

 言われてみればそうだ。電極が4〜5個要ると言ってもすべてが使えなくなるわけではない。鍛造型のように同じ物を何個も加工する場合は順番に活かしていくことが出来る。一品料理ではそうはいかないから、電極低消耗電源は、ダイキャスト型やプラスチック成形型などへのアプリケーションに着目された。
 低消耗電源のアプリケーションは貫通加工にもいろいろあった。薄い電極で深い穴が加工出来る。電極コストが安くなり、薄い電極は加工層の排出が良いので、比較的順調に加工できる。この頃から銀タングステンや銅タングステンの需要が減退し、グラファイト材料の需要が増え始めた。コンデンサ式電極低消耗電源「GX電源」も改良を加えられて、少しは良くなってきたが、スイス機で加工したような質の良いサンプルはなかなか得られない。これは加工電源のみではなく、サーボの問題もあった。底付き型の加工には電極のジャンピングが不可欠であるが、スイス機の油圧サーボはスピードに非常に優れており軽快だった。

 ジャパックスでも油圧サーボ機の開発には掛かっていた。今までの電気サーボでは大きく重い電極には対応困難になってきた。微妙なところを補うために、マグネットとスプリングを使ったサーボを併用していたが、力が弱いので重い電極には無力になってしまうのである。また剛性の弱いのも問題である。
 トランジスタ電源と油圧サーボ機の開発が急がれた。遅くなるほど事態の悪化が懸念される。そんな時期に工場長の交替が行われた。和泉さんに代わって池貝精密金型から転籍した片山さんが就任した。私の先輩であるが転籍して日が浅く、放電加工についての理解、把握はまだ不充分だったのではないかと思う。

 片山新工場長、トランジスタ電源への移行の間に、時間稼ぎにコンデンサ式低消耗電源改良型を1機種入れようとしたのだが、結果的には失敗だった。後にJ電源と名付けられたものだが、開発実験段階では、かなりの性能が得られたと言うので期待された。
 しかし、電源開発グループはすでにトランジスタ電源開発の準備体制にあったので、J電源なるものは工場サイドによって設計製作されたが経験不足もあって、理想は高いが現実離れしたものが出来てしまった。10台ほど納入したのが、結果は性能は出ない、故障は多発すると言う騒ぎになった。

 トランジスタ電源に掛かり始めた時期、ピンチヒッタ的コンデンサ電源の可否をめぐって論議された。片山工場長「トランジスタ電源を急ぎ過ぎて失敗したら、致命的だから」と言って、この件だけは妙に強硬だったように思う。先輩の言うにも一理ある。今までにも急ぎ過ぎて失敗した商品がかなりある。その二の舞いにならないための配慮ではあった。
 試作のバラックセットでは性能も良かったが、商品にしたらダメだった。と言うのが結構ある。リード線の長さとか、接点を介する介さないとかで、性能が大いに違ってくる。この電源、パワーのモジュール化とか言って筐体をバカ大きくした影響が効いて、いろいろ問題を起こし、最終的には全品回収の羽目に至った。

 このへんの時期に、神宮司営業部長も辞意を表明した。最初から契約社員だと言われていたので、契約を更新しないと言うだけのことかも知れない。退職が決定的で後任の営業部長には、池貝からの長谷川さん(現未踏加工技術センタ相談役)が着いた。
 要職にある幹部社員が相次いで辞め、士気の低下も著しく、前途の多難が予想されたことから、これを不安とする退職者がかなり出た。こんな時、労働組合が結成された。親会社の池貝鉄工が組合活動の活発なところなので、その働き掛けもあったかと思う。

 技術系社員の退社による手薄で、金子常務から私に「工場に戻って来てくれないか?」と言ってきた。そう言われれば戻らざるを得ない。PMセンターの技術開発室は三水さんにバトンタッチして、私も5〜6年ぶりに工場に戻ることになった。工場に戻る前にと言うわけでもないが、この昭和42年にはオーストラリアに出張し、少し危ないが得難い経験をした。
 出張目的は、納入機の検収・指導・既納機のアフターフォロー、ディラーのデモの応援などである。勿論受注もあるので、今回も西島さんと一緒の出張である。

 メルボルンでのこと。西島氏はシドニーに先行しており、私も大型機の検収を明日中には終わって、そのままシドニーに行こうとしていた夜のことだった。商社の方が家族ぐるみのお別れ会を開いてくれた。習い覚えたばかりのチェスなどもやって盛り上がり、ホテルに送ってもらったのは12時を過ぎていた。

 飲酒量もかなりなので、シャワーもそこそこにベッドにもぐり込んだ。寝入りばなに、夢の中で廊下が騒々しい。ボンヤリした頭で、こんな夜中に喧嘩でも始まったかと思った。そのうち、ドアを棍棒か何かでぶん殴ったようで、わめいているのが「ファイヤ!」と聞こえた。ベッドから飛び下り目が覚めた。日本のホテル「ニュージャパン」のような多数の焼死者を出した例もある。ドアの下の隙間から、煙が流れ込んで来たときは、足がガクガク震えたが、反射的に身支度して、荷物まで持って廊下に出た。これは木造住宅に住む我々日本人の習性のようである。それに子供の頃の空襲体験も加わる。

 私の部屋は7階だったから、万一の時でも飛び降りられる階ではない。廊下に出て、非常階段に向かう。皆さん比較的落着いているので、こちらも少しは冷静になった。回りを見回すと、私のようにフル装備している人は居やしない。女性ですら下着のままではないか? 一番ラクそうなのは、パンツ一つに濡れタオルだけ持った人である。煙が目や鼻にしみるので濡れタオルの持参は有効だ。
 それにしても、進みが遅くイライラする。各階の人が狭い非常階段に出てくるので、上にいる人ほど遅くなるが、その間に火でも吹き上げてきたら大変だ。何しろまだ路上の車がおもちゃのように小さい。

 煙にまかれながら、下の状況がどうなっているか不安でたまらない。この非常階段が絶たれたら、異国の地で最後になるかも知れず、これも運命か、などといろいろ考えたようだ。3階あたりまで降りて来てひと安心。万が一の時は飛び下りることも可能だ。
 やっと地上に降り立って、あたりを見回すと上着を着て靴を履いている人など、近くには見当たらない。時間は深夜の2時頃である。新聞社のカメラマンが、盛んにフラッシュをたいている。

 火は大したことなく消し止められたようで、煙で驚かされた。木造建築物だったら最悪の事態も考えられたが、そう簡単には燃えないことを彼等は知っている。体一つで脱出すれば良かったことを私も初めて知った。飲み残したウイスキーや、少し残ったナッツまで持って出ることはなかったようである。
 翌朝のメルボルンの新聞の一面の写真を見て苦笑した。私が一番大きく写っている。上着・靴と、パンツ一つの対照が面白かったからだろう。非常事態のときは、なりふり構わず、物持たずが原則のようである。一生に一度あるかないかの「ホテル火災」の体験を海外でやることになったが、大地震60年周期説というのもあり、これをいつ体験することになるか? 体験しないで済めばそれに越したことはないが。

 話し戻って、工場での最初の主な仕事は、開発試作したトランジスタ電源の評価と、加工データの採取である。J電源の失敗で、時間稼ぎが出来なくなった。なお片山工場長は最初から腹を決めていたかのごとく、この失敗の責任を取って潔く退職した。良い先輩だったが決心が固くてどうにもならない。
 昭和42年の暮近く、トランジスタ電源の試作品ができた。とりあえず試作した電源は1台だけなので、3人チームで、24時間フルに稼働する体制としてテストに当たった。私をチーフとして、宮野氏(現立山製紙)栗原氏(現ファナック)との3人である。他の仕事もあるので、以後しばらくは、1日4〜5時間家に寝に帰ると言うような生活になった。例えば、午後に出社して翌朝に帰ると言うようなことである。

目次に戻る   前頁  次頁