形彫り放電加工は
如何にして育まれてきたか?
佐々木和夫
● 大型放電加工機の開発実験と電極低消耗の予感

 昭和30年代の半ば、「放電加工研究会」「放電加工技術研究会」の活動もあって、放電加工なる新技術も関係業界に少しは知られるようになってきた。三次元金型の放電加工をやり始めたが、電極消耗の多いのがやはりネックであった。そんな時期、今までの感覚からは、少し飛躍した大型放電加工機の試作実験が行われた。毎年のように、通産省の補助金を受けて開発実験をやっていたが、その一環である。電極懸垂重量2トン、加工液容量2000gという放電加工機である。大きさのみならず、新しい試みをいろいろ取り入れた画期的な開発実験ではあった。
 平均加工電流500Aのパルス発電機電源、電気ー油圧サーボ、グラファイト電極、さらに、電解加工の要素も組み込まれて、放電加工の梨地面を電解研磨しようというのである.実施の主担当、プロジェクトのリーダは池貝鉄工より出向中の和泉さんである。

 機械本体は、K鉄工の門型プレスを放電加工機に改造したもので、背が高いため、池貝の工場に間借りである。それでもクレーン下ギリギリのため、門の上に設置してある油圧装置などの調整時は、クレーンの走行に注意しないと蹴飛ばされる。
 パルス発電機は大変厄介な電源であった。大型モータで回して、パルス電流を取り出そうという仕掛けであるが、起動トルクが大きくて、最初の起動時に池貝のメーンヒューズを吹っ飛ばしてしまった。池貝の鈴木五平さん(故人・常務で退任)に呼ばれて、「起動するのは早朝か夜にしろ」もっともである。回り出すと今度は音がうるさく近所迷惑であった。多少でも改善しようとして板金カバーで包んだが、放熱も必要なので限界がある。

 大電流に対しては、グラファイト電極でなければとは、外国文献でも明らかだ。しかし、当時のグラファイトブロックは、標準の煉瓦の大きさ位で、大きい電極のときはこれを接着剤で貼り合わせろと。日本では、電極材料としてのグラファイトなど夜明け前の段階であるから、他目的の製品の流用であり、放電加工特性なども定かではない。
 この放電加工機の試用先はヤマハと決まり、最初のテスト型は、オートバイのフェンダのプレス絞り型で、この電極を作らねばならない。グラファイト貼り合わせのお手伝いをしたが、煉瓦積みさながら100個以上を貼り合わせたかと思う。確か「日本カーボン」の材料だった。これを池貝に頼んで削ってもらった。7割がた粉塵になったわけであるから、黒煙もうもう、鼻の穴まで真っ黒だ。周りの環境を強烈に汚染したことは事実で、この材料、きわめて評判が悪かった。

 この機械、初の電気ー油圧サーボで、上下のバランスとか、ゲーンの調整とかが結構難しい。当時、サーボバルブに国産品の良いのがなく、輸入品を使用していたが、高価で私の月収の数ヶ月分である。これが、調整ミスとか、ゴミ混入とかで2、3個はダメにした。
 余談になるが、入社間もない頃、このサーボバルブを分解スケッチして図面化しろと命じられ、池貝と共同で試作したことがある。池貝は倣い旋盤用に沢山使う。そこそこのものは出来たが、品質は、部品加工技術の問題がポイントであった。電磁コイルなどFさんの手巻きであったが、線径もターン数も同じなのに、サイズがどうしても大きくなり、ケーシングに収めるのに苦労した。その後のことは池貝に委ねたが、実験用程度には使えたらしい。

 最初のプレス型のテスト加工は散々であった。新しいものずくめで、レファレンスがないから、原因がつかみにくい。全くの手探り状態である。それに加えて、加工の内容も最悪である。ワークは、若干加工代をつけた鋳物で、最初の当たりは、両サイドの線に過ぎない。投影面積は大きくても、最初は糸面のような加工から始まった。そこに500Aの発電機から、エネルギーが投入されるが、どうしようもない過電流である。
 さらに電極も怪しげで、貼り合わせたものを削ったから、小指の先程が申し訳なさそうにくっついているのもある。ガクガクサーボで欠け落ちると異常放電になった。引火し火が出たこともあり、心臓が凍る思いをした。

 電極が底面に届くまでに何昼夜もかかった。予定より遅れていたので徹夜の加工である。このプロジェクト、日程が遅れるとペナルティーが付く。1日当たり、私の月収を上回るペナルティーなので、一日もおろそかに出来ないが、加工は悪戦苦闘の連続である。異常放電が発生すると、電極・ワークをメンテしてやらねばならない。加工槽に入って作業するのであるが、半開きの前扉の陰になって、人の居るのに気付かず、ラムを降ろしかけるというアクシデントもあった。
 交代で寝ずの番をやったが、加工液が2000g入っている大型機なので、2人づつ着き、交代で仮眠することを可とした。必要に備えて近くに居なければならない。非集中管理なので2人居ないと調整も出来ないのである。

 ある夜、相棒のKさんの姿が見えない。薄暗い(電気代節約で照明は最小限にしていた)中を探したら、パルス発電機の板金カバーの上で仮眠していた。転がり落ちたらコンクリートの上だから度胸がいい。「この上が暖かい」少し肌寒い夜だったので、良いところ見付けたか、震動もほどほどにあって寝心地も悪くないらしい。それに騒音の子守歌がある。私は、いつも先を越されるので、寝ずの番にはますます強くなった。
 加工が終わるまで、1週間位掛かったような気がする。電極消耗は以外に少なかったが、このような加工ではわかりにくい。もっと単純な形状のグラファイト電極で加工してみたら、数%程度の消耗率で収まっている。加工速度は80g/分という創業依頼の大幅記録更新である。ピーク電流値を記憶していないのは残念だが、結果から言ってもかなり高かったものと思う。それがグラファイトの電極消耗率の低減にも貢献した。

 このへんの理由は後になってわかったことで、コンデンサ電源時代は、ピーク値とかパルス幅とかの概念はあまり重要ではなかった。ましてや、グラファイト電極に対しては、同じパルス幅ならピーク電流の高いほど消耗が少なくなることなど、10年も経ってからわかった。電極消耗について掘り下げることは行われなかった。その理由の1つに渋谷さんたちのやっていた「電解加工」への大きな期待があった。電極は消耗しないし、加工速度は電流値に比例的に上昇する。さらに魅力的なのは、面粗さが細かいことである。ステンレス鋼などを加工すると鏡面が得られる。今は精度が少し落ちるが、将来的には改善も可能ということで、「放電加工」が「電解加工」に追い付かれ、抜き去られる「図」が出来上がっていた。「放電加工」は加工速度を上げようとすれば、面粗さが荒くなる。非能率な仕上げ加工でも梨地面であり、かつ硬化層が出来る。後の仕上げが大変だと考えられていた。

 それに電極消耗は小さくとも、パルス発電機は音がうるさく、起動トルクが大きい。小さい工場ではヒューズがもたない。グラファイト電極もはなはだもって評判が悪い。電極にするには削り出すしかないが、作業者の拒絶反応が大きい。実用性にいろいろ問題ありで、電極消耗の追及はついに行われずじまいであった。
 この機械、納入時はちょっとしたお祭り騒ぎであった。分解して運んだので、運送業者、組み立て作業者、調整チェック担当、ピーク時15人位、一つの宿に泊まったので、毎晩のように大騒ぎである。そんな大騒ぎをやって納入した機械であるが、使いものにならず、結局は戻って来ることになった。企画としては、あまりにも無茶をやったと言わざるを得ない。3つの未知数を1つの方程式で解いてみろというがごときで、準備不足と言うか、時期尚早と言うか、当初から成功の可能性の極めて薄いものであった。

 しかし、ある意味においては、得難い実験でもあった。グラファイト電極材料を知り、その低消耗の可能性を知った。ただ、今までの感覚や技術の流れからは不連続なパルス発電機電源なので、スポットに終わってしまい、つながるものが何もなかったのは残念であった。
 そのため、放電加工電源の開発は、コンデンサ電源の性能(加工速度ー面粗さ)向上1本に絞り、ぼつぼつ出てきたM社など競合メーカに差をつけるべく、努力をしていたように思う。電極消耗改善の方は、「放電加工技術研究会」に「電極材料専門委員会」を設け、東北大工学部金属工学科の金子先生(現名誉教授・未踏科学技術協会副理事長)を委員長に迎えて、材料面での改善・開発をお願いした。当時としては材料面での期待の方が大きかったと思う。

 かくして、日本における昭和30年代の放電加工は、モータサーボとコンデンサ電源全盛の時代となり、昭和39年秋にスイスのトランジスタ方式低消耗電源が上陸して来るまで続くのである。そして、この上陸は日本の放電加工業界に衝撃をもたらし、ジャパックスにも大きなダメージを与えた。

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