形彫り放電加工は
如何にして育まれてきたか?
佐々木和夫
● 放電加工の安全対策と三次元加工へのアプローチ

 昭和34年当時の放電加工は、夏場に荒加工でも継続しようものなら、3Kが揃っていた。汚い、臭い、そして危険である。これらを改善していかなければ、オペレータがかわいそうである。皮膚の弱い人は、温度の上がった灯油の付着によって、皮膚に炎症を起こしたり、皮が剥けたりした。女性オペレータを育ててみようとトライしたこともあるが、この手の荒れが問題で断念した。薄いゴム手袋など使ってもワークの糸面などですぐ切れてしまう。
 オペレータの問題もさることながら、火災事故も心配である。今のところ、機械の焼損と小火(ぼや)の程度でおさまっているが、工場が全焼したり、人身事故(後で起こり、多額の損害賠償事件請求になった。後述)が起こったりしたら一大事である。何とかしたいと言う思いはあったが、取り敢えず、消火器の設置とオペレータが貼りついて居るくらいしかない。

 ところで、前に書いた浅草の会社、オペレータがちょっと離れたすきに2度目の火事騒ぎを起こした。昼休み、オペレータが社員食堂に行っている間に、シャンクにハンダ付けしていた電極が外れてワークの上に落ちてしまった。シャンクで電極を加工し始めたが、その位置が液面すれすれで最悪な状態だった。朝から加工していたのでそれなりに液温も上がっており引火してしまったらしい。
 近所の人が窓越しに炎の上がるのを見て119番したため、消防車が駆け付けてきた。私もまた呼び出されて、再び消防と警察である。浅草に2度も走らされたので、専務が慰労の席を設けてくれたが、それにしても2度ともユーザサイドの不注意事故である

 こんなことから、自動消火装置の必要性を感じ始めていた。液面低下にはフロートスイッチで対応できるが、このような不注意事故に対処するのは、自動消火装置しかないようである。防災機器メーカとも相談して、試作してもらうことになった。完成した試作品を実機に取り付けてテストすることになり、ボロ機械が準備された。風は気になるが、屋外でやるしかない。加工槽に灯油を満たし火を付ける。付けようとするとなかなか付かないものである。手っ取り早いのは、ガソリンを浮かべる方法で、時間があるときは投げ込みヒータで液温を上げた。ある程度液温が上がると、着火により一気に燃え上がる。
 屋外のテストでは結構風がじゃまをする。消し切れなかった時は手持ちの消火器で消すので、何回もやっているうちに、すっかり慣れてしまった。こんなことが役に立つもので、後に、社内で放電加工機火災事故が発生したとき、皆びっくりして一瞬思考が止まったようだったが、私は慣れているので悠々と消すことができた。訓練をして置けばそれなりに役に立つものである。

 安全対策の一方では、油だから燃えるので、水とか他の不燃物で加工できないかが、当然話題になった。水を加工液とする実験もやった。少し容量の大きいイオン交換装置を準備し、純水を噴流穴から極間に供給してやる。しかしワイヤ放電加工とはわけが違う。部分的に絶縁耐力が回復せずにリーク電流が流れてしまう。だいたいイオン交換樹脂が直ぐやられてしまうので、高い比抵抗を保とうとすると、ランニングコストが高く付く。結局第1段階のテストでは、ランニングコストが合わないだろうということで終りにした。油での加工はやむを得ぬとし、より引火点の高いものを探してみることになり、S化学などを訪ねて行った。引火点の最高は摂氏500℃位のテフロンオイルというのがあると言う。少し分けてもらってテストしてみようとしたが、値段を聞いてあきらめた。ジョニーウォーカの黒と同じくらいの値段だとのこと。当時ナポレオンとかジョニ黒は、我々にはとても手が出せない酒だった。

 そんな高い油をドラム缶で買ったら、機械より高くなってしまう。もう少し落として、スピンドル油とかタービン油とか手当たり次第にやってみた。粘度の高い加工液では、発生ガスが多くて、周り中煙りだらけになってしまうのもあった。
 そんなこんなやっているうち、油と水のエマルジョン(乳濁液)でやってみないかという話があり、試供品を提供していただいた。テスト結果はまあまあであるが、実は落とし穴があった。水を油で包むエマルジョンで、最初は問題ないが、放電によって時間とともに水の部分が蒸発していってしまう。最後に残るのは油だけとなるが、要すれば時々刻々変質して行くので、データも変わってくる。

 しかし、気の早い人は、一応は商品化など目論んだので、「JEMS1」などと言う商品名を付けたり、在庫の準備をしたりしたが、消防法でいう危険物であり、扱いにくい商品である。危険物取扱い者の資格すら誰も持っていないので知識が無さ過ぎた。変質が問題なので早めに打ち切ったので、損害を少なく抑えることは出来たが。
 消耗品販売なども目論んで、自前の営業として新人を二人入れた。池貝営業では消耗品の販売などにまでは手が回らない。YさんとMさんの二人である。この二人、在社期間は短かったが、創業以来と思われる異質の波紋を社内に起こしてくれたので印象に残る。
 Yさんは会社の金を持って行方不明になった。病気で寝ているという話しだったので、井上さんのお供で訪ねていったら裳抜けの殼。せっかく買って行った果物籠がむなしい。時を同じくして女子社員のIさんも姿を消した。二人で大島にいるらしいというので、心中の噂まで流れたのである。

 Mさんにはこんなことを言われた。「若いうちに女の子と遊んだり、浮気をしておかないと後で必ず問題を起こす」早く卒業して置けと言うのである。私は徹底反論し、賭けてもいいと思ったが、確かに何十年先まではわかりようがない。肝に命じて置くことにしたが、賭けておけば勝てた。Mさん、いろいろあって間もなく辞めてH商会なるものをつくり、EDMを専門に販売しはじめたが今は解散。その昔、社員だった人達はそれぞれの場で元気に活躍されている。
 とにかく、この所帯持ちに女子社員たちを誘惑されて、「お前らチョンガーは一体何をやってるんだ!」特に寮の3人組にはハッパがかかった。私は一番若年だったので比較的におとなしくしていたが、あわや決闘という場面もあった。(時効だから言える)
 変な話に脱線したが、こんなこともあってか自前の営業組織は育たず、相変わらず池貝営業に依存していた。幸い神武景気の到来で、受注の方は順調に伸びて行き、生産能力不足で1年分くらいの注残を持った。営業は納期の調整がメインジョブのようだった。

 開発資金も一応潤沢だったので、「電気加工の総合メーカを目指す」の名のもとに、相変わらずいろいろなことに手を出していた。一つ一つがギャンブルのようなもので、当たればラッキーと言う一面を持っていた。まかり間違えば道楽になりかねない。
 この度YJSの技術顧問になった渋谷さんも、私以上にいろいろなことをやった(やらされた?)一人である。時間がさかのぼるが、彼と話ししていて思い出したことがある。入社早々やったのが「放電焼き入れ」とのこと。その装置の製作を手伝っていたのが、もしかして現ソディック社長の古川さん。とすれば、渋谷さんと同じ昭和32年には入社していた? あやしげな書き方になるのはお父さんの関係で、時々会社に現れ、初めは学生アルバイトとか聞いていたので、アルバイターと思っていたときがある。めきめきと頭角を現してくるのは少し後のこと。私の記憶では当時夜間の高校生でもあり、時刻が来るとあわただしく学校に出掛けて行った印象がある。

 話を戻そう。そんな訳でいろいろやったが、売り上げに寄与するほとんどは、型彫り放電加工機であったから、パイを大きくするために三次元加工にアプリケ―ションの展開を計ろうと言うことになった。私に専任でやれということなので、喜んで引き受けた。併せてそれ用の機械・電源も商品化して行こうとのプロジェクトである。この仕事はその後の私にとって非常に有意義な仕事になったと思っている。少し大げさに言えば、日本に於ける三次元放電加工のパイオニヤの自負をもたらしてくれた。
 その頃、放電加工で三次元形状らしいものをやられていたのは、犬山市の自転車技術研究所の高木先生(故人・金型工作法の著者)くらいだったが、電極消耗の多い時代、系統立ててやられていたわけではないし、範囲も限られていた。メーカとしては広い範囲のユーザに加工技術マニュアルを提供し、かつ加工上のアドバイスをしてやる必要がある。

 もっともそれまでまったくやっていない訳ではなく、散発的にはトライアンドエラーで対応していたが、場当たり的で、だましだましでも加工さえ出来ればOKであったから普遍性がないのである。これからやろうとするのは関連する一連の技術であり、経験を積んで変化にも対応出来るようにしようという本格的な取組である。

目次に戻る   前頁  次頁