放電加工補遺物語
− 連載約5年の弁と近況報告(1/2) −
 この補遺物語もついに20回目になった。放電加工シリーズずいぶん続けたものだが、 このへんでいったん休止し、少し充電したいと思う。 読者諸兄には、本当に長い間つたない文章にお付き合いいただいて、誠にありがとうございました。 いずれまた近く書く機会もあると思いますが、その時はあらためてよろしくお願い申し上げます。


 ところで、これを書いているこの6月半ばで、 私がYJSに入り渋谷の事務所に出勤しはじめた日からちょうど5年になる。 その5年前の夏、犬山市で行われたYJSグループの営業会議に初参加し、 そこで私の入社紹介も行われた。 会議の後同じ犬山市のYJS本社のサロン風の会議室で飲み会があった。
 その飲み会では私が新入りという事でお酒の集中砲火を浴びた。 コップだか茶碗だかに一升瓶から注がれるのだが、 その一升瓶のいろいろな銘柄は吉田さん(YJS社長)のコレクションとかでズラリと棚に並んでいた。 なかでも上等そうな金箔入りの旨い酒をいただいてすっかり酔ってしまった。
 そのお礼状に感想などを添えて送ったら、YJS短信に載せてもいいかとおっしゃる。 その程度でいいのなら、何か少しまとまったものを書きましょうかとなったのが、 この連載5年の始まりである。

 さて、何を書こうかと思ったら、テーマについていろいろな要望をいただいた。 渋谷の飲み屋でYJS社員の数人と話していたら、 先ずはワイヤ放電加工機の誕生について書けというので、それからスタートしてみた。 しかるにワイヤ放電加工はあまり自分でやっていないので間もなく息切れし、 形彫り放電加工機に切り替えた。
 渋谷の事務所では、私が職務として委託された留守番、電話番をしながら書いたので、 取材はせず、ろくな資料もなくて書くのだから記憶だけが頼りである。 そうなるとやはり深く関わっていないワイヤ放電加工は限界で、 形彫り放電加工と自分の会社人生を重ね合わせて書くのが一番書きやすいと思った。
 渋谷の事務所と言うのは、新設した東京ワイジェーエス販売株式会社である。 スタート時の常勤者は私と下園氏との2人だが、彼はほとんどがユーザ回りなので、 私が高橋さん(YJS販売社長)から留守居役・電話番を頼まれたわけである。 ところが携帯電話の時代だから下園氏あての電話は直接本人に行くので、 電話らしい電話のほとんどない日もあった。

 そんな日でも忠実な留守居役としては外出もならず、事務所に居るほとんどの時間が、 キーを叩いて作文する時間になったから文章が沢山書けた。 それらは名古屋への報告書だったり、エッセイまがいのものだったり、 潜在ユーザであるお客さんへの手紙だったり、この連載の原稿だったりしたわけである。
 そのうち文章書きが面白くなり病み付きになってきた。 カラオケをやり始めたときと同じである。 8月の夏休みも全部事務所に出てパソコンと向かい合った。 終電ぎりぎりまでキーを叩いていたこともある。 目が疲れてくると2階の窓から下の歩道を眺める。
 渋谷駅と原宿駅近くを経由する明治通りは、切れ目なく若い男女が通り、 夏にはへそ出しルックとかいろいろなファッションがあって飽きることはない。 そこには私とは別の世界がある。その頃流行っていた分厚い靴? でひっくり返った女の子も2~3人見たが、危ないものが流行ったものである。

目次に戻る)  (前頁) (次頁