放電加工補遺物語
− 放電加工技術の黎明(2)(1/2) −
 この連載を書き始めたころから、 ジャパックス創業の昭和28年7月から私の入社までのブランクの約3年間のことを何とか 書けないものかと考えた。 そのため私が入社した昭和31年7月にすでに在籍して居られた方々から断片的な お話を聞いたりはしたが、残念ながら、それだけの材料で書けるようなリポーター的筆力は 持ち合わせていない。
 しかし、せっかくだから、記憶に残っているエピソードだけを断片的にメモしておこうかと思う。
 何と言っても第一号社員だった古谷さん(コタニ商事)から聞いた話。

 古谷さんは古川貞三さんらとともに岡山県で井上研究所に勤務していた。 昭和28年秋、日本放電加工研究所設立のため、 先発上京していた井上さんからよばれて岡山から夜行列車で上京した。 カラクサの大風呂敷に布団や着替えを包んで背負ってきたというからエライ。 今の人は知らないと思うが、昔は布団は大概カラクサの大風呂敷に包み、 背負ってから風呂敷の対角の2端を胸のあたりで結んだのである。
 JR山手線田町駅が最寄の駅の三田四国町の池貝鉄工本社に来るようにということで 「品川駅で汽車を降りて、電車に乗り換えて一つ目の駅が最寄の駅」と言うように聞いて来たそうだ。 初の上京である。
 品川駅で汽車を降りて、カラクサの大風呂敷を背負いなおし、 何とチンチン電車の都電の方に乗り込んでしまったのだそうである。 一つ目で降りたってそれらしいものがあるはずがない。全然違う場所である。 住所を尋ねて尋ねて歩いたそうだが、背負った布団と手に持った荷物が重いし格好悪くて 大変な思いをしたらしい。その格好と不安そうな目の色を想像するとつい笑ってしまう。 ゴメンナサイ。

 余談ながら、実は私もカラクサの大風呂敷に布団を包んで背負って歩いた経験がある。 高校時代の部活で合宿するために布団を学校まで背負って行った。 さすがに恥ずかしいので、それこそ黎明の頃に裏道の墓場をひそかに移動したのだった。 あのスタイルで都内を昼間歩くのは少々度胸がいる。
 第一号社員として入社したものの、当時の池貝鉄工は、 岡崎嘉平太さんによる再建途上にあって給料の遅配欠配はザラだった。 もちろんまだ何も稼いではいない日本放電加工研究所も例外ではなく、 給料も普通の半分ほどしかもらえなかったそうで、ボーナスなどは夢のまた夢の世界だった。 池貝鉄工社内の空き部屋に寝泊りさせてもらい、社員食堂で食べていたので、 給料半分でも何とか生活はできた。
 入社以来お世話になった二村先輩(放電精密加工研究所)から聞いた話。
 お客様のクレームを処理したりして、連日夜遅く帰るようなハードな日々が続いた頃、 南武線溝の口駅に夜遅く降りて、池貝寮までの南武線沿いの道をトボトボ?歩きながら、 "いっそのこと、この線路に飛び込んだら楽になれるだろうな"などと思ったりしたのだそうである。 この話はちょっとしたショックだった。
 特許庁に居られれば安泰だった二村さんが、当時、給料もままならず、 蛇は出るがボーナスはでないところに何でと思ったりしたが、 その後のいろいろな展開を思うと、天性、安泰平穏に甘んずるような人ではなさそうである。

 ついでながら、当時の寮への道は、南武線の線路の反対側は田んぼや畑の暗くてさびしい道だった。 大雨が降ると道路が冠水して、畑との境が見えなくなることがあった。 台風が過ぎたある夜の出張帰りもひどく冠水していた。 靴を脱ぎズボンをまくり上げて冠水した道を渡り始めたはいいが、 お客さんと飲んだ赤堤灯の酒で千鳥足、境の溝にひざのあたりまではまったことがあった。 「なるほど溝の口か?」とかブツブツ言って泥だらけになった足を洗ったのでした。
 クレーム処理の責任を負わされ、対応工数の確保がままならないと、 肉体的にも大変だが精神的にも辛い。 後年Sさんのようにストレスからノイローゼ気味になった人も居た。 私はサービス責任者時代は、入院するような病気にでもなればいいなとよく思ったものである。 盲腸の手術でもすれば一週間くらいは仕事から逃げられる。 病気になりたいと願っても神様は一向に聞いてくれなかった。今思うと贅沢な話だった。  

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