放電加工補遺物語
− 放電加工技術の普及発展に貢献した人たち[1](2/2) −
 放電加工技術通信講座では、講師の皆さんが非常に真面目で真剣だった。 上に立つ人の性格的なものの反映だろうと思うが、放電加工技術の普及発展について本気本音で話し合い実行に移そうとした。 特に二村部会長の放電加工技術に対する熱意によるものが大きかったと思う。
 通信講座のスクーリングの日には、必ず質疑応答を2時間ほどとった。 スクーリングは3回あり、第3回目のスクーリングの担当講師は私とIHI(石川島播磨重工業)の山口さんである。 私が底付き加工、山口さんが部品加工と言うことで、それぞれが若干得意とする分野である。
 山口さんの名前が出た機会に、今回の会合には出席されなかった氏のことに少し触れて置きたいと思う。
 山口健一さんは昭和34年東大工学部を出てIHIに入られて間もなくから、航空機部品の放電加工に取り組まれ、 その道では先駆者あり、かつ日本の第一人者であったと言ってもいい。 山口さんの合理的なものの考え方には時々脱帽するが、忘れられない2、3のエピソードがある。
 氏は新入社員の頃から、よくジャパックスにテスト加工に来られていたが、 ある日大型台風の接近で"午後3時に帰社せよ"と会社の命令が出た。 山口さん、新聞の気象図を取り寄せ、コンパスなどを使って何やら計算していたが、 「4時までは大丈夫です!」と断言する。真剣さに押されて私も4時まで付き合ったが、 精度はともかく、台風が来る時刻を自分で計算する感覚にびっくりした。
 ある一つは、虎の門の未踏のスクーリングでは前述のようにいつも相棒だったので、 一緒に帰ったことがあり、地下鉄の駅で、それぞれ行列に並んで自動機で切符を買った。 山口さん券売機の前からなかなか離れない。「どうしたんですか?」「おつりが10円足りない」 後ろに人が並んでいるのにかかわらず駅員を呼び出しているのであった。 10円でも足りなければ見過ごさず、ちゃんと正すべきだと言われたように思う。
 IHIを定年前に退職し、2、3年?放電精密加工研究所で働かれていたことがある。 電気加工学会の研究会はお互い常連だったので、その時期会場でお会いし昼食を一緒にした。 「放電精密の本社(その頃は溝の口KSP内)と厚木工場に通うのに便利なよう中間点の町田にアパートを借りています。」 山口さんらしい考え方だなと思ったものである。自宅からだと、少し遠距離通勤になるが、 そのくらいの通勤者は世の中に沢山いる。職住は接近した方が合理的だということでしょう。
 氏のIHI当時、山口さんの提案で、放電加工の専用機や特別仕様機を思いっきりよくいろいろやった。 その情報を掴んだ他の会社から、まったく同じものとか、類似のものとかのオーダーもいただいたりした。 文字通りトップランナーであった。
 話し戻って、スクーリングの質疑応答では、私は自分の経験から組み立てた考え方で解答するのであるが、 井上さんから例えば、その問題は"放電加工の基礎"(井上潔著)にある数式で明らかではないか?とかアドバイスが飛んでくる。 私もその本は当然熟読しているのだが、その数式で説明しても質問者は理解できないのが顔色で分る。 井上さんはその程度の数式が分らなかったら、そのくやしさをバネに勉強しろと教えているのかも知れない。
 そんな時には二村さんが助け船を出してくれる。私の立場では強行突破は困難と思われてのことであろう。 質問者に何とか分ってもらおうと、とにかく熱心なのである。 せっかく高い授業料を払って来るのだから何か一つでも多く持って帰ってもらおうと熱意が伝わる。 わからん奴は放っとけとはなかなか割り切れない人である。 
 二村社長は、お名前の昭二で年齢が公開されている。その年齢で、いま毎日約15kmランニングしているのだそうである。 以前は毎朝5時起きして、川崎大師の付近を約7kmとおっしゃっていたが、今は朝夕という。 雨と出張の日は除いて年間約270日は走るのだそうである。そのせいか本当にスリムになられお元気である。 
 大変な社長職を継続するには、とにかく心身とも健康であるに越したことがない。 片方では昔から継続されている禅をやり、ランニングと合わせて、心身の健康維持に努められている。 並みの人ではなかなか続かない。
 「何事も成し遂げるためには、継続することが大切である。」と街角のある布教用掲示板に貼ってあった。 こうと思ったら、ちょっとやそっとでは挫折しないで、飽きずにやり続ける意思力がないと、 大を成し得ないと言うことであろうと自戒も含めて思う。

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