放電加工補遺物語
− 岡崎嘉平太さんのこと[1] (2/2) −
 それにしてもお母さんの言葉「自分が譲ればまるく収まるときには、譲ってまるく収めるのが一番いいことだ。」「私の性格を消極的にしたのも母のこの言葉ですが、 短気な私をどうにか無事に今日まで支えてくれたのも、この母の訓えであると思います。」と、「私の母」という数行の随筆に書かれている。  
 余談ながら、同じ岡山県名誉県民の土光敏夫さんのお母さんの言葉は「一度志したらやり遂げろ!途中でやめたらいかん。」 お祖師さんへの誓いを初志貫徹して70才で横浜に橘学園という女学校をつくった大変なお母さんの言葉である。  

 さて、私が岡崎さんから直接聞いたお話で、比較的印象に残っているものを、重複もお許しいただいてランダムに書いてみましょう。  
 岡崎さんは終戦を上海で迎えられ、日本大使館の参事官として終戦処理に重要な係わりをもたれたが、それは一応置いておき、その頃の中国でのお話である。  
 戦後少し経ったが、まだ先が見えない頃、地平線までも見えるような広大な中国大陸の小高い丘のゆるい斜面に座って、「この国とケンカしてはいかん。 今後仲よくしてゆかねばいかん。」と、つくづく思われたのだそうである。  
 その背景はいろいろあると思うが、一つには、終戦時の紹介石のかの有名な布告文「恨みに報いるに徳をもってせよ」この布告によって日本人がかなり救われた。 女流作家の瀬戸内寂聴さんは終戦時北京に居たそうだが、報復を恐れて生きた心地がしなかったところ、赤い紙に書いたこの言葉「報仇報恩」が前の塀に貼ってあるのを見て、 「こんな文化の根の深い国とよくも戦ってきたものだ。」と思ったと自伝に書いている。この文の起草者が一高時代、岡崎さんの同級生だった中国人留学生と言う話である。  

 池貝鉄工の戦後苦難の時代のお話もお聞きした。給料の遅配欠配が日常茶飯事だった頃、神戸の会社から緊急のクレームが入ったが、会社には旅費もなかった。 洋服を質屋に入れてでも対応すべしと言い、社員がそれに応えて、本当に私物を質入れして旅費を工面して対応したという話である。お客さんへの対応の重要性も言われたものと思う。  

 富山に行ってYKKの本社工場を見学された時のお話もよくされた。ジャパックスの小型放電加工機が並んでいた。YKK創業の吉田社長がまさか岡崎さんがメーカの社長とも知らず、 将来性のある機械だとか褒められたのが、誇らしかったようである。  
 こんなお話もされた。「人間歳をとると、カドがとれて丸くなると言うが、カドがとれて丸くなってはいかん。人間が小さくなる。カドを埋めて大きく丸くならないといかん。」 コンペイ糖をイメージされてのお話なので、コンペイ糖(金平糖?)の話としてメモリーしたが、今の人にはあの突起が沢山の砂糖菓子はわからないかも知らん。  

 "功績は航跡"の話は前にも書いたが、ひとつの功績を奪ってはいけない。特に上に立つものは部下の功績を奪うなと言うお話である。自分の功績は、船の航跡のようなもので、自分で言うのではなく、 世間のひとが公正に判断してくれる。  

 故松下幸之助氏語録に「この世の中、社会と言うものはごまかしが全然きかない、いわば神のごときものである。」と言うのがあるが、企業も個人も神様にはみなお見通しだから、 その場はうまくごまかせたと思っても、いずれはその報いがくる。  

 岡崎さんは虎の門の未踏科学技術協会の理事長もされていた。放電加工通信講座の開講式、修了式では、必ず岡崎さんが理事長として挨拶された。 その日は、井上副理事長、栗野事務局長、二村技術委員長と、講師として技術委員の当時IHIの山口さん、富士通オートメの大間さんらと私が一堂に会し、昼食も一緒にとる。そんな通信講座が十年以上続いた。 岡崎さんの5分間位での挨拶の大意は、「日本は資源の乏しい国だから、頭脳で稼がねばなりません。普段から創意工夫に努めなさい」このことは私たちも当然よくお聞きした。 その際、いろいろなものの日本国内での自給率などの数字が出てくるが、よくこんな数字まで覚えてられると思うこともしばしばあった。

 岡崎さんの言葉に「私は日本銀行へ乞食に入ったんだ」何かほかの人間らしい目標を見つけると言う気持ちが、そんな言葉になったようですが、日中問題がライフワークとはなった。 蛇足ながら、目標を別にもって、飯のために入った会社でも、仕事を中途半端にやってはいけません。一生懸命やりなさいとも言われている。  

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