放電加工補遺物語

− 放電加工技術の黎明(3)(1/2) −
 YJS吉田社長から韓国での講習会に使われたIT関連のテキストを送っていただいた。 私の講習した、韓国に放電加工技術研究会ができた頃の話を少し書いてみよう。 韓国においての放電加工技術の黎明期で、昭和40年代に入ってからのことである。

 日本国内に放電加工機がかなり普及しはじめた頃、当然ながら諸外国からの引き合いも入ってきたが、 サービス体制の問題から時期的にはかなりシフトして昭和40年代になった。 海外からの受注が決まった納入予定先の会社で、 半月とか1ヶ月とかの単位で勉強に来たいと言う人も現れてきた。
 その中で、私が直接お付き合いしたのは、日本語の達者な台湾や韓国の人達である。 我が輩、日本語以外はどうも苦手である。 張り切って行った英会話教室の女の先生に「佐々木さんの英語はズーズー弁」と言われて、 あっけなく挫折した。
 日本語がわかる人には国内向けの月例講習会にも参加してもらった。 中でも台湾のある大手電機メーカ工場長(当時)の呂さんとか韓国のS精機の李社長とかが印象に残る。
 台湾の呂さんは、日本語が達者でお酒と仕事が大好きで、 半月ほどの短期間ながら私と大変気が合った。 若かった頃であり、お酒の好きな人とは大変気が合って、時間の都合さえつけば飲み屋に付き合った。 呂さんはスポーツ用具店のスキーの看板を遠くから見て、 あそこにウィスキーがあるから飲みに行こうと言うほどお酒に目がなかった。

  呂さんの実習目的は、自社のモーターコアのプレス抜き型に放電加工技術を活用することで、 当時の日本の最新技術を学んで帰りたいとのことだった。 プレス抜き型には電極製作技術も重要だったので、その方も別の会社で学んで帰った。 おそらく台湾の放電加工技術の草分け的存在だったろうと思う。 酒の肴に送るからと約束して帰ったカラスミを沢山送っていただいたのが記憶に残る。
 韓国の李さんは、初来訪時、年輩の部長さんを伴って来た。 まだ若くて日本語がほとんどできなかったため日本語が流ちょうな部長さんが通訳である。 放電加工を学んで帰って、自らの会社で放電加工をやるとともに、 商社として韓国に放電加工機を普及発展させようというのである。 その後何回か来日されているうちに日本語も驚くべき早さで上達された。 私の英語とはえらい違いである。

  何回目かの来訪の時に、日本の放電加工技術研究会のことを知り、 韓国にも放電加工技術研究会をつくりたいと思われるようになったようだ。 そうなれば一小企業としては各方面の協力賛同を得なければならない。
 そんな理由からであろう。政界や学会にもPRをはじめられた。 その一環として、韓国の名門ソウル大学の朴教授を伴って来訪され、 見学がてら研究会設立するに当たって予備的情報など仕入れられたと記憶する。 この朴教授が初代の会長候補である。
  そのうちに、韓国の国会議員も来訪され、 放電加工技術研究会の研究発表会にも参加させて欲しいというので、 せっかくの機会だから韓国事情についてのスピーチをお願いした。 その頃の会場は東京ステーションホテルで便利が大変よく、遠くから集まる会員には特に好評だった。
 この日も100人以上の会員が集まっていたと思うが、 韓国議員のスピーチ中にハプニングが起こった。 大阪から来たある中小企業の社長が演壇に向かって突然大声で何やら怒鳴りだしたのである。
 韓国の代議士の話は達者な日本語でこんな内容のものだった。 「これからは国際分業の時代である。歴史を大きくさかのぼれば中国の文化の多くは朝鮮半島を 経由して日本に入った。 近代の工業技術については、今度は日本から韓国に伝えて欲しい。 是非よろしく技術のご指導願います。」
 大声で怒鳴られては会場が混乱する。 井上常任理事の目配せで、私がとんで行って腕を取り会場外に連れ出した。 幸い、私がよく知っている型屋の社長さんだったので事なきを得た。 会場から連れ出した後に大声を発した事情を聞いた。

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